正しさの狂人
いやしくも生について正確に伝えようとするなら病的になる他ない: DESIGN IT! w/LOVE
以下の文章は引用先のことについて触れるわけでもなく、タイトルを自分なりに発展させて考えたことについてなので実質関係ないです。
病的に生を伝えるというよりかは、正当性を伝えるのに必死だと人は病的になるんじゃないのか、と自分は思っています。
分かりやすい例としてはドロドロの裁判沙汰。どちらに非があるかは分かりませんが徹底して自己の正当化を訴えるのですが、それは裁判として至極当然のことなのですが、それが第3者の視点を通してみれば病的な感じに見えてしまいます。
裁判じゃなくてもデモや労働組合、遺族たちなどの自己の主張を訴える行為など、それ自体は社会生活を送る人間がするごく普通の行為であり(内容はともかく)発言の自由として問題ないことなのですが、どこかしら病的に、果てには人格を崩壊させてまでしているという印象があります。
かつて自分もそういった主張をすることがあり正当性を訴えてはいたのですが、心の中で「この感覚はいつもの自分とは違う」と自己矛盾に近い何かを宿していたため 1 人苦しんだことがありました。
正しさというのは法的なものであれ、倫理観に基づくものであれ、あってしかるべきなのですが、そうしたものは振るうものではなく相互理解と暗黙下に置くべきものであり、素人には取り扱いが難しいものなんだとその時から思うようになりました。
まあ相互理解ができないからこそお互いの主張があるのですが、今後自分は正しさで狂う前に、性悪説よろしくお互いには欠陥があるものだと距離を置きながら物事に付き合うべきなんだなと思うようになりました。
そして願わくばこの先、正しさの狂人にならんことを祈る。